大きな壁の内と外 §
結局のところ、このアニメクライシス1983論で明らかにしたのは、以下の構造的な問題だ。
- 志を上げることは、アニメ作品の質の向上を意味する
- しかしながら、志を上げすぎると周囲が付いてこられなくなり、むしろ作品は荒れる
つまり、アニメで行ける場所と行けない場所がある。1970年代後期の宇宙戦艦ヤマトブームを契機にひたすら質を向上させ続けたアニメが、ここで1回天井に突き当たってしまったのだろう。単に質を上げるだけでは進めない世界があることを露呈させてしまったのだ。むしろ、金をかけて優秀な人材を集め、質を上げれば上げるほど現場と観客に見放される現象が発生する
それは、いかに良く出来たアニメを【これは良く出来ているよ】と自分が誉めても無駄であることを意味する。壁の向こう側にある限り、多数派の客はそこまで来られないのだ。
たとえば、【最近面白いアニメが無い】と歎いているマニアに向かって、【これもある】【あれもある】と紹介する行為は無駄であることを意味している。なぜなら同じことを繰り返せば飽きて当然だが、質を上げても壁の向こうに行ってしまえば受容できないからだ。要するに、一般的な客から見て【面白いアニメ】は無くなるのが自然なのだ。似たような表現、似たような題材で作品を作り続ければいつかは客も飽きる。
ではどうすれば良いのか。
方法論は3つあるだろう。
- 壁を移動させてできるだけ高い志を実現する
- 壁の内側で可能な最大限を目指す
- 諦めて緩やかな滅びに身を任せる
もちろん、アニメという表現形式にこのあたりで引導を渡すというのも魅力的な案だ。昔と違って、今は技術的にいくらでも他の表現手段はある。何も制約の多い方法に固執することはない。
しかし、アニメしか受け付けない客と、アニメしか作れないスタッフがいるなら、彼らが死に絶えるまでアニメを作り続けることも悪い発想ではないだろう。経済的に採算が取れれば、シーズとニーズを満たすことも間違ってはいないからだ。
もしそれを実践するならば、志を過剰に高く持ってはいけないことになる。
ほどほどが一番だ。
それでアニメを欲しがる高年齢層のメジャー層は満足はしないかもしれないが、納得はするだろう。
それによって、もうちょっとマシな作品を欲しがる層や、若年層は取りこぼすかも知れないが。それらはそもそも商品のセグメントが違うのだ。
【おわり】
あとがき §
このクライシス論は本来ゴーバリアンの研究の副産物として生まれたものだ。当初は、ゴーバリアン論の一部扱いするつもりだったのだが、あまりにも事例が多く見つかるので途中で主従が逆転し、最終的に分離独立させた。ゴーバリアン研究はそれはそれで別途まとめる予定だ。
もっとも意外だったのは、原稿をまとめて連載開始した後に、全く同じ症例のコミックを発見してしまったことだろう。壁が2つあるという構造そのものが同じであることに本当に驚いた。
これは問題の本質がアニメに限らず普遍的に存在することを示す。
【馬鹿の1つ覚えで同じことを繰り返して飽きないの? もっと先に進まないの?】という問いに意味は無かったのだ。彼らはもちろん既に【飽きている】。しかし、先には進めないのだ。なぜ先に進めないのだろうか? 壁があるからだ。その壁は誰が造ったのだろうか? 先に進めない本人だ。本人なら壁は壊せるのだろうか? もちろん壊せる。どうすれば壊せるのだろうか? 目の前の光景をありのまま見るだけで良い。とても簡単な話だ。では、その簡単な話を実践できない人が世の中に多いのはなぜだろうか? それはアニメ界に限定されない。理由は簡単で、その方が生きるのに楽だからだ。生きるのは辛いと思っている人も多いのになぜ【楽だ】と言い切れるのか? 現実をありのままに見るのは、もっと辛いからだ。